10/29(水)、コンペティション『紙の月』の上映後、吉田大八監督のQ&Aが行われました。
監督:今日は『紙の月』を選んで見て下さって、ありがとうございます。いろんな感想がおありでしょうから、出来るだけ良いものも悪いものも持って帰りたいので、遠慮せず話を聞かせてください。よろしくお願いします。
Q:本作の脚本について質問したいことがあります。本作の映画オリジナルのキャスト、大島優子さん演じる相川恵子、小林聡美さん演じる隅より子が登場します。脚本を書かれた、早船歌江子さんとどのような経緯・打ち合わせでオリジナルのキャストを生み出して脚本を完成させたのか教えてください。
監督:原作では主人公梅澤梨花のかつての同級生だったり、元の彼氏だったり、そういう人たちの話が結構な部分を占めていて、彼らは彼らでそれぞれの生活の中でお金の問題を抱えていて、そのエピソードが進みながら、梅澤梨花が銀行のお金を横領して逃げたというニュースを見て、「あぁ、梅澤梨花ってこういう人だったな」って思い出すという。原作は群像劇の色合いが強いですね。
この脚色を始めるときに、脚本の早船さんとそういう人たちをそのまま映画の中に取り込もうとすると、結果として回想場面が増えてしまうだろうと思ったんです。いろんなスタイルがあると思うのですけれども、僕はこの話は、彼女が悪い事するにしても、悪いことをして見つかるにしても、一種の切迫感というかスピード感を出したいと思っていたので、回想が増えていくと、ソコとうまくマッチしないかなというのがあって。まずかつての友達たちというキャラクターを外すということを思いました。その後に彼女と誰か関わることによって人間が見えてくるはずですから。
結果として原作に返ると銀行の場面がすごく長くなって、銀行の中で彼女にプレッシャーをかける隅さんと、彼女の無意識を代弁して、むしろ彼女の背中を押して行っちゃう相川さんという二人の人物を、彼女が思っていたり、彼女の行動に理由を与える、二人の登場人物なんですけれど。そういう風にして、より原作をボクが考える映画の形に近づけていくために、登場人物の入れ替えをしました。それが一番大きいポイントですね。
Q:質問ですが、梅澤梨花が若い頃、父親の財布からお金を抜き取るシーンがありましたが、監督はそういう経験があったりするのでしょうか。また実際あった場合、それは何のためでしたか。
監督:そういう報告をしないといけないみたいな(笑)?そうですね、母親の財布でしたかね。もっとずっと小さいときに駄菓子屋の何かが欲しいとか。駄菓子屋で何かを買うって事が制限されていたので、財布からちょっとお金を取って駄菓子屋に走ったのを覚えてます。それは単純に駄菓子屋の何かが欲しかっただけですよね。
中学生の時の梨花が父親の財布からお金を盗ったというのは、見ていただいて分かるように、僕は人間てそんなに変わらないと思っていて、子供のときの何かが大人になって影響するというのではなくて、大人の時も、子どもの時も、その行動を決める自分の中の原理というのは、大きく変わらないと思っているので。あそこの所で、なにか物語のキーになるところを感じていただけたとしたら、それは嬉しいです。
Q:監督の過去作品は、時代背景などを非常に意識されて、色々細かくされているのをいつも拝見していて、今回も小道具を含め非常にすんなり、94年95年というのがピクチャーされるような演出が多々あったと思います。今回この94年95年みたいな時代背景をもう少し自分の中でストーリーに反映させるような意識的なアイディアとかはあったんでしょうか。
監督:時代物といっても、今までボク『紙の月』で5本目ですけれども、おそらく現代じゃないとうたっているのは、2本目の『クヒオ大佐』というのが、あれが最初の湾岸戦争の頃が背景でしたが91、2年ていうのがあって。だから両方90年代前半ということを2回やっていて、あとは逆に時代が関係ないと言うか、たとえば携帯電話が入らないくらい田舎なので、携帯を誰も使っていないとか、だからどこかで自分の意識の中で、ある限定された空間の中でドラマを展開させたいという思考が恐らくあると思うのです。今回に限って言うと、一つはバブルが崩壊した直後と銀行はこのような横領を実際の手口として成立させるために、銀行のオンライン化が本格的に進んでしまう隙間の盲点というか、コンピューターも導入はされていたのですけれども、完全にオンラインになっているわけではなくて、そういう中で証書などを偽造する手口が、まだギリギリ成立した時代として選びました。ただこの時代というのが、僕はそんなに昔のことという気がしなくて、丁寧に再現したとしてもそれほど報われないといいますか。情緒がね、江戸時代だったり昭和の初期の明らかに今と違う風俗の中に入って罰の体験ができるという感じでもないから、報われないなと思いながら、ちゃんとそれをやらないと俳優たちがそういうことを気にしていたら演技ができなくなってしまうから、今度やるときはもう少しハッキリとした時代をやってみたいという気持ちもあります。
Q:エンディングについて監督の中で、脚本執筆当時のひらめきや、脚本家さんや、スタッフさん方と話したかどうか、聞いてみたかったです。
監督:実はですね、これは撮影が始まってもエンディングをどうするかはハッキリと決まっていなかったんですね。実際のスケジュール上、タイに行くっていうことは一応決めていのですが、タイで何をするかということに関しては、日本の撮影が終わっていたからタイに行くということをきめていたので、その間に考えればいいでしょという、何でそう思ったかというと、宮沢さんとお仕事を始めてどういう理解になっていくかということを感じをつかんでから考えたかったという、ある意味無責任といえば無責任ですけれども、贅沢なことを少ししてみたくて、結局バンコクで撮影しましたけれども、もっと田舎のほうというプランもありました。実際にそのためのロケ班もしたりして、すごく田舎のほうで終わるというアイディアもありました。あるいは一瞬だけ町の中に梨花の顔がみれて見失うとか、色々あったのですけれども、でも、実際に宮沢さんと梨花を一緒に作り上げていく中で、一番この映画人にフィットしたエンディングということで、ああいう映画が終わった後も彼女の物語がその後も続いていくという暗示を持って終わりたいなということで、あのようなラストにしようと思いました。
Q:この映画は力強いような感じを受けたのですが、そこら辺は意図してそういう形で作っていたのですか?あと、池松君の台詞の中で、お金を初めて受け取るときに「これを受け取ったら何か変わっちゃうよ」とそれが心に引っかかった台詞だったのですが、そちらの台詞も何か意図があったのでしょうか。
監督:原作を読んで、ドラマは見ていないのですけれども、彼女がずっと葛藤しながら横領してお金を使うというのは、若い池松君が演じた光太との関係を続けるために、と見えるわけですけれども、もう少しお金を使うときの楽しさというか、原作にもある部分ですけれども、お金を手に入れてお金を使うときの一種の自分が違うものになったというか、単純に楽しくお金を使いたいとか、お金を使って気持ちよくなりたいとかそういうことをドライブ感をもって描きたいとまず思ったんです。結果的に宮沢さんの演技にマッチして最初の意図とはまた違うものになっていったのですけれども、原作と違うと思われていたのは元の僕の発想がもう主人公に後悔させない、悩ませない、言い訳させない、というのが大きな脚色のテーマとしてあったので、それがそういう風に受け取っていただけたのだと思います。
光太の台詞としてはまず、僕の印象ですけれども結構光太もああ見えてしたたかなやつで、多分親切心で言っているわけではなくて「一応断っておいたからね」ということで、だからあの後あれだけ開き直って一緒にお金を使えるという、一応薄暗いところから出てきているということは彼も知っているわけで、光太はズルいやつだなっていつもあの台詞を編集とかを通して思いました。どう思いますか?女性から見てもそう思いませんか?光太を自分が嫌っているわけではなくて、男女関係においてズルい手を使ったなと思っただけです。光太が嫌いなわけではないです。