10/29(水)、ワールド・フォーカス『セルフ・メイド』の上映後、シーラ・ゲフェン監督のQ&Aが行われました。
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シーラ・ゲフェン監督(以下、監督):東京に来るのは今回が初めてですが、とても興奮しています。東京は前から聞いている通りとても素敵な町だと思いました。今回、私と私の作品を映画祭にご招待いただきましたこと、とても嬉しく思っております。
司会:シーラさんの作品は、『ジェリーフィッシュ』を以前日本でも上映したと思いますが、イスラエルでは映画だけではなく、いろんな方面の文化人でいらっしゃいます。『セルフ・メイド』は、カンヌ国際映画祭で私とスタッフが観まして、ぜひ東京でもやりたいと思い実現したので非常に嬉しく思っております。
Q:この映画を拝見して、本当に奇妙な映画だな、妙な映画だなと思いました。カフカの「変身」を思い出しました。彼の影響は何らかで受けていますか。
監督:まず、そのように言っていただけて非常に嬉しく思います。カフカは私の最も好きな作家の一人です。そして私の作る映画は、非常にたくさんのものから影響を受けています。特に私の中では「グリーンブラザー」という作品から影響を受けています。特にこの作品はルネ・マグリットの絵画からも非常に影響を受けています。あるいは、ディズニーのファンタジーを受け継いでいるかもしれません。このように、非常にたくさんのものから影響をうけているわけです。そして、このような変身・変貌は私の大好きなものです。そして、私自身も同じではなく、たえず変化し続けています。
Q:とても楽しかったです。この映画のテーマはどういったテーマでしょうか。そのテーマを表すシーンがあれば教えてください。
監督:この映画は大きなコラージュのようなものです。これは私自身の経験や記憶、そして私自身の想像を切り貼りしたコラージュだと思ってください。この映画を観たとき、この映画の主題を「権利」というようにみなさん想像されるかもしれません。そして、この映画を観ていると、二人の全く立場の違う女性が同じように重なっていく、そのように感じるかもしれません。そして、コラージュと申しましたが、たくさんの主題を絡めているわけです。その中でも私が特に強調したいものは「権利」というものです。そして、私たち自身が変化していく、どのように変化していくかというと、社会がどのように私たちを見ているかということによって、私たち自身が変化を受けている、そういったことも表しています。
Q:この映画のプロダクションですが、イスラエル人パレスチナ人どういう組み合わせのスタッフ・キャストで作ったのでしょうか。
監督:まずは、映画を作ったクルーは全員イスラエル人です。ナディールの役をやっていたパレスチナの女性は、彼女はもちろんアラブ人です。そして、彼女の旦那役の人もアラブ人です。ナディールのお兄さんをやっていたゼアドという人もアラブ人の俳優さんです。
司会:映画作り、撮影の最中の言葉はどうなっていたのですか
監督:全員がヘブライ語で話しています。
Q:アラブ人の女優さんとイスラエルの女優の方、途中まで全然違う二人だったが、後半は一瞬見間違えるほど重なる場面もあり不思議な体験でした。二人の女優さんの共通点として、青い衣装がとても印象に残っていますが、この衣装を選んだ理由を聞かせてください。
監督:まず色の話からしたいと思いますが、青の衣装は、美術監督と話をしたときに、今の現実と少し違ったものを作りたいと考えました。そこで美術監督が言ったのはすべての世界を青色で統一してみようという案が出ました。この中で唯一違う色を使っているのが、花の色、バラですとか、ドイツ人のテレビクルーの女性が着ていた黄色のドレスなどが意図的に違う色を使っています。それは、リアルの世界からの介入というものを見ています。そして、統一された青の世界を見ることによって、観客は青の世界に集中してみることができるように作りました。このように統一化された色というのは観客の集中を引き込むものだと私たちは信じています。
そして、最初に言われましたように、イスラエル人とパレスチナ人の女性が、途中でどっちがどっちだかわからなくなったということは、私にとって非常に嬉しいことです。実は、それはこの映画の目標であったと言っても過言ではありません。
司会:それでは今の話と絡んできますが、タイトルの『セルフ・メイド』にこめた思いを教えてください。
監督:実はヘブライ語の原題では『ねじ』です。これは、英語に直すとスクリューになってしまい、いまいちインパクトがないと感じました。セルフメイドというのは、いわゆるDIY自分で作る家具ですが、このようにして自分自身をもう一度構築するということを考えて、この題名にしました。ねじという題名は非常に気に入っているんですが、通じませんので。
Q:大変素敵な、不思議な体験をできて、ここに来て良かったと思っています。今、原題は「ねじ」とうかがいましたが、スクリューとねじ、ねじれる・混ざるというイメージがありますが、そういう印象があって題名に使われたのでしょうか。
監督:初めて思いつきましたが、それはとてもいいアイディアだと思います。あと、ヘブライ語では「ねじが欠ける」(通訳さん追加:日本語では「ねじが外れる」と言いますが、)というのは、多少そういった人を示すスラングではあります。実はこれも同じように原題に込めた思い「ねじが欠けている人達」というところもかけてあります。差し支えなければ、そのアイディアを使わせていただきたいと思います。
Q:監督はパレスチナ問題をどう考えているかと、撮影制作するにあたってパレスチナ問題で苦労した点はありますか。
監督:まずこの作品は、すべてイスラエル領内で撮影しました。つまり1967年第3次中東戦争以前の元々イスラエル領のところで撮影しております。そして、この映画の中で出てきた検問はセットですが本物と同じように作っています。私たちは検問を見張るというグループを作っています。これはどういった活動といいますと、イスラエル人女性によるグループでして、検問の横に女性たちがずっと立っているんですね。そのことで、イスラエル人兵士がパレスチナ人を見張るだけではなく、さらに外からの視点を向けられたときに、果たして兵士たちが強硬な手段に出られるのか、ということ見張るという意味も込めてそういった活動をしています。これはこの映画の中でも表現しましたが、私はこのグループで活動していたときに、検問の様子を見ていました。そこでは非常に日常の光景とはかけ離れたひどい世界が広がっています。人々は仕事にいくため、例えば病院にいくため、そうしたときにもパレスチナの人達はずっと何時間も何時間も検問に立ってからでないと、検問を通ることはできません。そういった状況です。その活動を通して私が決めたこと、それは私がもしイスラエルに住み続けるのであれば、この問題に対して何かをしなければならない、そのように決めました。そして、今回この映画の中でこのような検問を描いたわけです。それから皆さんが思い描くような検問、日本ではあまりイメージできないかもしれませんが、検問の中での日常生活、毎日どのような検問が行われているのか、どのような調べ方が行われているのか、そして、イスラエル人・パレスチナ人の日常ということで描き出したつもりです。私自身はとても楽天家のつもりでおりますけれども、私自身パレスチナ問題イスラエル人ということを考えるときに、非常に私は恐い思いをしています。たとえば、イスラエルの現政権に対しては、私は良い印象を持っていません。この政権はパレスチナ問題について正面から向き合っていないと私は感じています。これが私の今持っている感想です。
Q:先ほど権利の話が出ましたが、それはどのような権利なのか。権利が仮に自分で作るということをイメージされているのであれば、その権利は非常に辛そうに見えました。二人ともコミュニティから切り離されたり、あるいはアイデンティティから阻害されていたりして、なぜそういう風に描いているのですか
監督:まず私が表現している映画は、すべて私の中の実体験から来ています。この中に出てくる非常に難しいと感じられたことがあるかもしれませんが、これは実際に私自身がそのように感じていることです。この出てきた女性二人は社会から外れたというか、コミュニティから外れたというのは、私自身がそのような自分の姿というのをこの二人に重ねています。ちなみに、私自身も記憶力が悪いです。ミハルのようにですね。そしてナディールのように私は方向音痴です。もちろん彼女ほどひどくありません。ねじを落としていくほどではありませんが。 そして、私は難しさというのを抱えながら、みんな生きていると思います。そして、このようにみんなで映画を観ていくときに、皆さんが普段感じないようなもの、新しい視点、そういったものが出てくると思います。ですから、このようにいろんなこと、みんながわかりやすいキャラクターを描くことは簡単ですが、作品として成立はしていかないと思います。
Q:素晴らしい映画をありがとうございました。子どもがいらないというミハルと、子どもが欲しいパレスチナ人で労働者という環境の女性ナディーンの二人が関係する男性が同一人物であるということをしばらく後に気づいたのですが、監督としてはその男性は何を象徴しているのでしょうか。
監督:これは同じ人と見たかもしれませんが、他人の旦那さんというのはみんな同じように見えるかもしれない。これは本当に同じ俳優さんが演じています。そして、ミハルはだんなさんとコミュニケーションをとるのが非常に難しいという状況があります。ですが、ナディーンは実際彼とつながってそのような場面が出てきました。そして、ナディーンは子どもが欲しいと思っていましたが、なかなか授かることができなかった。そして、ミハルの世界へ子どもを連れて行くことができた、と見ることもできると思います。そして、この映画に出てくる色々な対立ですが、これは全部私自身のイメージからきています。そして私自身も、子どもを産む前はずっと子どもが欲しいと思っていました。そして、また逆に思っていたのは、もしこの忙しいのに私に子どもができたら、とてもじゃないけど生活していけない、それは自殺行為だと考えたこともあります。このような私の中にある二つの対立の想いが、この映画の中にも描かれています。
Q:ラストシーンについて
監督:私が好きな仕事としては、ショットを投げっぱなしのように見えるかもしれませんが、結果を見た人たちの中に残すということ、考える余地を残すということが大好きです。ですから皆さんが最後に評価というか結論を皆さんの中に探していただきたいと思います。