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2013.06.14
[インタビュー]
連載企画第4回:【映画祭の重鎮が語る、リアルな映画祭史!】-アジア映画の隆盛と映画祭10周年(1993年-1995年)

連載企画第4回

東京国際映画祭事務局 作品チーム・アドバイザー 森岡道夫さんロングインタビュー
 
第4回 アジア映画の隆盛と映画祭10周年(第6回1993年から8回1995年TIFF)
 
 
──第6回東京国際映画祭(1993)は細川連立政権が発足し、皇太子と雅子さまがご成婚された年に開催されました。
連載企画第4回

©1993 TIFF

森岡道夫(以下、森岡):Jリーグ開幕やレインボーブリッジの開通など、この年は華やかな話題が目立ちますが、7月に北海道奥尻島沖で地震が起きて多くの死傷者を出しています。大企業ではリストラが始まり、世の中に不況風が吹き荒れていました。映画祭を振り返ると第6回には画期的な出来事がありました。新興著しい中国が2つのコンペティション部門で大賞に輝いたのです。
 
──ティエン・チュアンチュアン〔田壮壮〕監督の『青い凧』(インターナショナル部門・東京グランプリ)と、ニン・イン〔寧瀛〕監督の『北京好日』(ヤングシネマ部門・東京ゴールド賞)ですね。
森岡:第10回(1997)を最後にコンペ部門は一本化されますが、一国による2大コンペの制覇は類例がありません。中国は映画祭史上稀に見る偉業を成し遂げたのです。でもこうした華々しさの影で、思いがけない事件が起こりました。
 
──何があったのですか?
森岡:中国の代表団が会期半ばにして、映画祭から引き上げてしまったのです。
 
──事実上のボイコットですね。どんな経緯があったのでしょう?
森岡:『青い凧』の上映に反対していたのです。中国側の主張は、海外で中国映画を上映するときは所轄の組織の許可を得なければならない。つまり、中国政府の許可がない作品を海外に持ち出すことはできないというものでした。しかしクレジットには登場しませんが、日本の会社がスポンサーに付き、日本側にも著作権のある作品でした。すでにカンヌやヴェネツィアで上映されて好評だったこともあって、予定どおり上映に踏み切ったのです。
 
──事件はマスコミでも大きく報道されました。
森岡:ヨーロッパでの上映は何事もなかったので、代表団がそこまで強行になるとは思いもしませんでした。団体で中国へ帰ると聞かされて、徳間(康快)さんに相談したときは冷や汗ものでした。徳間さんは映画プロデューサーとして『未完の対局』や『敦煌』などの日中合作物を手がけていて、中国の映画人とも付き合いがある。言ってみれば、取引先の機嫌を損ねたのですから激怒するのが当然です。ところが相談に行くと、「帰りたいなら帰したらいい。俺が責任を持つからいいよ」と請け負ってくれました。
 
──徳間康快氏の傑物ぶりがよくわかるエピソードです。中国側からすれば、文化大革命の時代を描いた映画なので、神経質になっていたのかもしれません。
森岡:そうですね。でも、受賞したお二人の監督には不憫な思いをさせました。一行と別れて日本に残ってくれたのはいいけど、授賞式への参加はさすがに躊躇われる。結局、ティエン・チュアンチュアン監督は登壇しましたが、女性のニン・イン監督は晴れの舞台には上りませんでした。オーチャードホールの緞帳が降りてから彼女を呼んで、トロフィーと賞状を授けて祝福したのです。『北京好日』は老人社会を庶民的なタッチで描いた、情感豊かないい作品でしたね。
連載企画第4回田壮壮監督

©1993 TIFF
トロフィーを掲げるティエン・チュアンチュアン監督

 
──波乱含みの映画祭となりましたが、『ラストソング』(杉田成道監督)の本木雅弘さんが最優秀主演男優賞を受賞し、当時84歳のマノエル・ド・オリヴェイラ監督が最優秀芸術貢献賞に輝くなど、明るい話題も豊富ですね。
森岡:『アブラハム渓谷』(ポルトガル・フランス・スイス合作)で賞を獲ったオリヴェイラ監督は、『階段通りの人々』(ポルトガル・フランス合作)が翌年のインターナショナル・コンペ部門に選出されて、2年続けて来日してくれました。とてもお元気で、年齢よりひと回りも若く見えました。
 
──ヤングシネマ部門の国際審査委員にヴィム・ヴェンダース(監督)を始めとする豪華メンバーが就任したことも、話題になりましたね。
森岡:審査委員長がヴェンダースで、ポール・オースター(作家)、レスリー・チャン〔張國栄〕(俳優)、鈴木清順(監督)らが審査委員です。チャンさんは片言の日本語を覚えてくれて、とても親しみやすい方でしたよ(笑)。
 
──海外の一流作家がよく審査委員を引き受けてくれましたね。
森岡:オースターの映画好きは有名で、ひと頃はカンヌや様々な映画祭に顔を出していました。日本人では渡辺淳一と赤川次郎に声をかけたことがありますが、スケジュールの調整がつかず泣く泣く諦めました。独自の視点で評価できるところに作家の強みがあります。
 
──この曲者揃いの審査委員たちが東京ブロンズ賞に選んだのが、ツァイ・ミンリャン〔蔡明亮〕監督の『青春神話』(台湾)です。
森岡:『青春神話』を初めて見たのは、作品選定の仕事でカンヌへ行ったときのことでした。いまプログラミング・ディレクター(PD)を務める矢田部吉彦さんのように、この頃、私は朝から晩まで映画を観続けていました。その日も例外ではなく何本もハシゴして、疲れはピークに達していました。ホテルに戻って一杯引っかけて寝るつもりでしたが、夜9時の上映があると聞きつけて、わが身を奮い立たせて観たのがこの作品です(笑)。なんとその日に観たなかでは一番の出来で、すぐさま東京への出品を依頼しました。
ツァイ・ミンリャンは今でも私を覚えていてくれて、映画祭のボスと思っているらしい(苦笑)。敬虔な仏教徒で仏像をプレゼントされたことがあります。マレーシア出身とのお話でした。
連載企画第4回ミンリャン監督とレスリー・チャンさん

©1993 TIFF
ツァイ・ミンリャン監督(右)とレスリー・チャンさん(左)

 
──アジア秀作映画週間は如何でしたか?
森岡:前回までの成果を踏まえて、バラエティに富んだラインナップを組んだのが功を奏したのでしょう。上映本数は10本でしたが満席になる上映会も増えてきました。
 
──この年は小津安二郎生誕90周年を記念して、催し物をやったと聞きましたが?
森岡:特別招待作品として『東京物語』を上映し、ミーティング・ルームの一画を使って小津安二郎展を開催しました。鎌倉の住まいの書斎を再現して縁の品々を展示したのです。小津監督を敬愛するヴェンダースとホウ・シャオシェン〔候孝賢〕監督、中井貴一さん、松竹で『早春』等を製作した山内静夫さんがテープカットに駆けつけてくれました。
連載企画第4回テープカット

©1993 TIFF
テープカットの模様、左から山内静夫さん、中井貴一さん、ヴィム・ヴェンダース監督、ホウ・シャオシェン監督

 
──さて第7回(1994)は、東京国際映画祭を京都で開催することになります。
森岡:1994年は平安遷都1200年の祝賀年であり、国を挙げて記念行事を行うことが1年前に決まりました。年間を通して大々的なイベントをやり、その掉尾を飾る行事として、京都での映画祭開催が決定したのです。
「東京の映画祭をなぜ京都でやるのか」と鈴木俊一都知事(1979〜1995在任)は猛反対しましたが、京都は日本映画発祥の地であるという理由がありました。荒巻禎一京都府知事(1986〜2002在任)が省庁出身で、政財界とのパイプが太いこともあって実現に漕ぎつけました。正式名称は「東京国際映画祭・京都大会」ですが、ポスターや看板は苦肉の策で「京都国際映画祭」という通称を大きく記載しました(笑)。
 
──東京に事務局があるのに、京都開催というのは戸惑いませんでしたか?
森岡:「来年は京都だよ」と言われて一番驚いたのは、私たちスタッフです(笑)。最終的にこの1年は事務局の構成を変えることにして、徳間さんは名誉実行委員長となり、京都出身の高岩淡さん(東映社長)と奥山融さん(松竹社長)の2人がGPに就任しました。高岩さんが企画・運営、奥山さんが劇場・上映関係という役割分担です。そうして京都にも事務局を置き、東京と連携しながら業務を進めました。京都事務局は、東映京都撮影所と京都映画、映像京都(2010年解散)から抜擢された人員で構成されました。
 
──作品選定と字幕制作は、これまでどおり東京で行ったそうですね?
森岡:そうして字幕のついたフィルムを京都に輸送する計画でしたが、これが思いのほか難航しました。打ち込み作業が追いつかず、上映当日の朝に仕上がることもあったのです。1~2本ですが、朝の新幹線で運んで10時の上映に間に合わせるという、サスペンス映画さながらの離れ業を披露しました(笑)。
 
──出品が決まった監督は締め切り直前まで作品の仕上げをやりますから、会期間際に作業が立て込んで、ラボもさぞかし大変だったのでしょう。打ち込み方式で上映作のすべてを網羅するのが困難となり、このとき初めて投影方式の字幕を試みたそうですね。
森岡:テストしたらうまく行ったので、一部の作品の上映で採用したのです。これはアテネ・フランセ文化センターの堀三郎さんが開発した技術で、特許も取得されています。
 
──映画祭で投影方式の字幕が重宝される理由は何でしょう。
森岡:映画祭に持ちこまれるフィルムは、上映が終われば他の映画祭で使用される場合がほとんどです。ところが、字幕を打ち込むとフィルムの使い回しができなくなります。他国の人に日本語字幕はただのキズ。先進国ならまだしも、発展途上国ではせっかく苦労して仕上げたプリントが使えなくなるのは困るという事情がありました。堀さんの技術は、こうした問題の解決に貢献してくれたのです。いま東京国際映画祭では、ほぼ100%投影方式の字幕を採用しています。
 
──この大会では、来日ゲストの送迎にも苦労が尽きなかったそうですね?
森岡:映画祭のひと月ほど前に関西国際空港がオープンしましたが、京都までの接続が悪くて担当者は頭を抱えていました。最寄りの泉佐野駅から京都までは乗り継ぎが多くて本数が少ない。電車もノロノロ運転ばかり。そこで車での送迎を考えましたが、高速道路もまだ整備されておらず道順も複雑でした。いまなら電車でも車でも1時間ちょっとで京都に辿り着きますが、当時は3時間以上もかかったそうです。
 
──完成間もない空港ですから、まだ就航しない地域も多かったのではありませんか?
森岡:実は、関空に乗り入れない地域のゲストも大勢いました。そうした方々は、成田から鉄道や国内線の旅客機を使って京都へお連れしました。これが行きと帰りですから、担当者の苦労はふだんの比ではなかったと思います。
 
──このとき、ロジャー・コーマン(監督・プロデューサー)がヤングシネマ部門の審査委員長として初来日しました。コーマン監督は昨年事務局が編纂した「25回ヒストリー・ブック」にコメントをお寄せくださり、「映画祭の温かいもてなしに感激した」と書いています。
森岡:空港のミーティング・サービスから滞在中のフォローまで、いまでもキチッとやっています(笑)。
 
──コーマンの下で国際審査委員を務めたのは、韓国の国民的俳優のアン・ソンギ〔安聖基〕、イタリアのガブリエラ・クリスティアーニ(映画編集者)、それに大森一樹監督でしたね。
森岡:ある日、台風がやってきて、夜に予定していた審査上映が中止になりました。そこで皆さんを早めに飲み屋にお連れすると、大いに盛り上がって結局、夜中まで飲み明かしてしまいました。アン・ソンギと大森監督が仲良しになって、「カズキ」「ソンギ」と呼び合いとてもいい雰囲気でした。時間を忘れて語らい、地下の飲み屋から出てみるときれいな星空が見えていました(笑)。
 
──大森監督は好かれるお人柄なのか、ジャンヌ・モローさん(女優・このときインターナショナル部門の国際審査委員を務めた)とハグしている写真も残っています。
連載企画第4回

©1994 TIFF
ジャンヌ・モローさん(左)と大森一樹監督(右)

 
森岡:映画祭は作品の上映だけでなく、人の出会いと交流の場です。そういう意味では、作品のゲストや審査員同士が仲良くなるのは本当に嬉しいことですね。これは余談になりますが、京都で映画祭を開催したのが縁で、結婚されたカップルがいました。東映の女性社員と京都府役所の男性職員が結ばれたのです。結婚式に呼ばれたけど海外出張で行けなくなり、祝電を送ったら会場で紹介された(笑)。そんな微笑ましい出来事もありました。
 
──受賞結果を振り返ると、イム・ホー〔巌浩〕監督の『息子の告発』(香港)がインターナショナル部門のグランプリに、ガリン・ヌグロホ監督の『天使への手紙』(インドネシア)がヤングシネマ部門の東京ゴールド賞に輝きました。2年連続でアジア映画が両コンペを独占したことになります。
森岡:イム・ホーは3度目の出品での快挙で、第8回(1995)でインターナショナル部門の国際審査委員を務めてくれました。ヌグロホは第4回(1990)で『一切れのパンの愛』(アジア秀作映画週間)が上映され、2度目の出品での快挙です。中国、香港、インドネシアとアジアの国々が続けざまに受賞したことは、この頃、アジア映画が如何に伸び盛りであったかを物語っています。
連載企画第4回ヌグロホ監督、イム・ホー監督

©1994 TIFF
ガリン・ヌグロホ監督(左)とイム・ホー監督(右)

 
──ガリン・ヌグロホ監督はその後、『枕の上の葉』(第11回・1998)で審査員特別賞を受賞し、第19回映画祭(2006)では国際審査委員を務めました。第25回映画祭(2012)のときも、アジアの風部門でインドネシア映画の特集が組まれ、『目隠し』が上映されていましたね。最早、常連と言っていいくらいです。
森岡:こんなふうに何度も出品してくれる監督は、帰国してから、「トーキョー良かったよ」と広めてくれます。そのおかげで、いまでは彼らを目標にしている若い監督たちが、映画祭に作品を応募してくれるようになりました。
 
──自主企画ではどんなものを上映しましたか?
森岡:まず、アジア秀作映画週間は本数を16本に増やし、日本映画の新作(原一男監督の『全身小説家』ほか)もこの部門で上映しました。日本映画の新作の上映は、しばらくこのかたちが続きます。一方の旧作は、日本映画発祥の地での開催を記念し、クラシック作品の特集を企画しました。「NIPPON CINEMA WEEK」と題して、伊藤大輔、内田吐夢、溝口健二の時代劇作品を上映したのです。
伊藤大輔の『忠次旅日記』(1927)は、1991年にフィルムが民家で発見され、修復後に京橋のフィルムセンターで上映されましたが、大変貴重なプリントのため滅多に上映する機会がありませんでした。そのフィルムを借りてきて映画祭でかけたのです。
 
──これは大映京都撮影所(時代劇の撮影所として知られるが1986年に閉鎖された)の前身となる、日活大将軍撮影所で撮影された名作ですね。チャンバラの原点となる作品が上映されて、会場は大いに湧いたのではありませんか?
森岡:それはもう無声映画ですから、場内はシーンと静まり返っていました。ところが途中で、どこからともなく音楽が聴こえてきます。チャンバラの場面で「ホレ来た!」とばかり、伴奏が鳴り響くのです。さすがは京都。時代劇の伴奏音楽のテープを持っているオールド・ファンがいたんですね(笑)。映画館のマナーとしては御法度ですが、土地柄を彷彿させるエピソードであり、ちょっと嬉しくなりました。
 
──華道家でもある勅使河原宏(監督)が竹のアーケードを作って、古都にふさわしい華やかな演出をされましたね。
森岡:メイン会場の京都会館は、大通りからちょっと奥まったところに入口があります。その間の歩道に竹の三角状のアーチを掲げました。オープニングセレモニーでは、祇園芸妓衆による廓の賑わい手打ち式や御陣乗太鼓が登場して華を添えました。一方のクロージングは南座で開催しました。歌舞伎役者が演目の一部を披露するなど、受賞セレモニーは盛況でした。
京都は映画好きが多くてどの会場もほぼ満杯。1年置きに開催してほしいという声もありましたが、東京都が許すはずはありません(笑)。京都大会はこの1回かぎりで終わりました。
連載企画第4回京都

©1994 TIFF
左:竹のアーケード、右上:廓の賑わい手打ち式、右下:1200年広場の装飾

 
──続けて、第8回に入りたいと思います。1995年は阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が起きた年です。戦後50年となる節目の年は、かつてない激動に揺るぎました。
森岡:時代とは裏腹に、映画の歴史では1995年は特別な1年として刻まれています。1885年生まれの映画が、ちょうど100歳を迎えたのです。これを記念して、世界各地で映画生誕100周年のイベントが大々的に開かれました。
東京国際映画祭に話題を絞ると、本年は、1985年の開催から10周年目のアニバーサリー・イヤーに当たります。10年で8回と数が揃わないのは、最初の頃は隔年開催だったためです(苦笑)。時代は閉塞感が増していきますが、映画祭としてはアニバーサリー・イヤーにふさわしい企画内容で勝負に出ました。
連載企画第4回

©1995 TIFF
シリンダー広告 右は夜のライトアップ

 
──どんな企画をされたのですか?
森岡:まず、フランス映画100年の歴史を詰め込んだアンソロジー『リュミエールの子供たち』(アラン・コルノー監督、クロード・ミレール監督ほか)を特別招待作品として上映しました。それから映画生誕百年祭実行祭委員会(朝日新聞)の委員長である蓮實重彦さんと山根貞男さんにご協力を頂き、「ニッポン・シネマ・クラシック」を装いも新たに復活させました。
 
──映画批評の大家にどんな協力を仰いだのでしょう?
森岡:お二人に部門のプログラミングをお願いし、「いま蘇る幻の映画」と題して、1930年代の滅多に観ることのできない作品を特集しました。成瀬巳喜男の『噂の娘』『女人哀愁』、山中貞雄の原案を萩原遼が監督した『その前夜』、山田五十鈴がタイトルロールを演じた『樋口一葉』など、長らくフィルムが現存しないと思われてきた作品を発掘しニュー・プリントで上映したのです。上映は連日、大盛況でした。
連載企画第4回

©1995 TIFF
上映を待つ観客の皆さんの行列

 
──映画祭事務局が独自に編集した小冊子もありましたね?
森岡:蓮實さんも山根さんもたいそう積極的に取り組んで下さり、「世界の映画人100人が選ぶ日本映画この1本」というアンケートを実施して冊子にまとめることができました。当時はメールがなく、蓮實さんが事務局に足を運んで下さり、海外にファックスを送るのをお手伝いしました。
 
──監督、シネマテーク学芸員、評論家を中心に行ったアンケートは、結局129人から回答が寄せられ、こんなに日本映画が観られていたのかという驚きがありました。アレクサンドル・ソクーロフ(亀井文夫『戦ふ兵隊』 を選出)、ピーター・グリーナウェイ(黒澤明『蜘蛛巣城』を選出)、ジャン=ジャック・ベネックス(小津安二郎『秋刀魚の味』を選出)など、意外なチョイスも興味深いです。
森岡:溝口健二、小津、黒澤で複数の作品が挙がるのは予測できますが、五所平之助、成瀬巳喜男、大島渚、鈴木清順、市川崑、今村昌平も複数選出されているのが嬉しいですね。冊子はいま保管用の1冊しか残っていないので、インターネットなどで公開してもいいかもしれません。
 
──蓮實氏と山根氏はいつまで「ニッポン・シネマ・クラシック」のプログラミングを担当されたのですか?
森岡:第10回(1997)まで使命感を持って務めて下さいました。山根さんは以前から映画祭に協力してくれましたが、蓮實さんは厳しい目を向けておられました。だから、3年も続けてやって下さり、本当に感謝しています。
 
──この頃になるとアジア映画が世界的にも注目を集めます。アジア秀作映画週間にも、その影響が現れてきたのではありませんか?
森岡:ずっとアジア映画の充実を唱えてきましたが、市山(尚三)さんが部門の刷新を図ってからは、観客も集まるようになりました。熱気を帯びてきたムーブメントに、さらに追い討ちをかけたのがアジア映画の国際化現象です。
三大映画祭の受賞が続いて、いまや世界的なブームとなっていました。そのおかげで配給会社がついて、一般公開される作品も増えてきたのです。アジア秀作映画週間はこうした流れと相俟って、次第に盛り上がりを見せてきました。
 
──これまで観られなかった国の映画が観られるようになったのは成果ですが、そうなると、ますます観ることのできない国や地域が気になりますね?
森岡:当時はWORLD CINEMA部門がなかったため、アジア以外の作品は、コンペに選出されなければフォローできない現実がありました。そのことを考慮して、市山さんは枠に留まらないものを積極的に上映しようとしました。非アジア地域の映画の上映本数を試験的に増やし、観客の反応を待つことにしたのです。そうして上映されたタル・ベーラ監督の『サタンタンゴ』(ハンガリー)は、8時間という上映時間が話題を呼んで大反響を巻き起こしました。
 
──インターナショナル部門の審査委員長はヒュー・ハドソン(監督・プロデューサー)でしたが、グランプリは「該当作なし」という残念な結果に終わりました。
森岡:この1回限りの出来事です(苦笑)。実はこの審査結果を聞いて、「困ったことになったな」と、徳間さんに相談に行きました。オリンピックのような世界記録はなくても上映作品から一番を決めてほしい、徳間さんの了解を得て、そうお願いするつもりでいたのです。ところが、「それは見識がない。われわれは審査委員の決定に従うべきだ」と逆に諭されました。そこで、決定を素直に受け入れることにしたのです。
 
──ヤングシネマ部門の審査委員長には、当初、クシシュトフ・キェシロフスキ監督が予定されていたそうですが?
森岡:会期前に体調を崩し、急遽、アンリ・ベルヌイユ監督が代わりに就任されました。キェシロフスキの体調が思わしくないのは知っていましたが、本人が大丈夫と言うので当てにしていました。駄目になってしまい大変残念でした。
開幕2週間前の出来事でしたが、ベルヌイユ監督は気さくな方で快く引き受けてくれました。
 
──インターナショナル部門とは対照的に、ヤングシネマ部門では、2作品に東京ゴールド賞が授与されるという派手な展開でした(笑)。
森岡:ジャファル・パナヒ監督の『白い風船』(イラン)と、ブライアン・シンガー監督の『ユージュアル・サスペクツ』(アメリカ)が受賞しました。幸いにも2作同率1位で副賞の東京シルバー賞の該当作がなかったため、これを合算した賞金額が両者に分け与えられることになりました。
 
──東京ゴールド賞が2000万円、東京シルバー賞が1000万円ですから、合計で3000万円になります。当然、2人で折半されたのですよね?
森岡:そのとおりです。『ユージュアル・サスペクツ』はサンダンス映画祭で観てとてもいい作品なので、映画祭で上映したいと招致した作品です。交渉が決まるのと相前後して、アスミック(配給会社)が日本での配給権を手に入れました。目利きの会社だと思いましたね(笑)。
『白い風船』のパナヒ監督が手にした賞金は、本国のイランに持って帰れば大金で、結果的に3本の映画ができたそうです。こんなふうに、将来の作品に賞金を役立ててもらえるのは嬉しいことです。なかにはベンツを買った人もいたようですが、ご褒美ですから文句は言えません。高価な買い物をしたことを糧に、より良い作品を撮り続けてほしいですね。
 
連載企画第4回

1993年5月、カンヌでの森岡さん

 
連載企画第4回

2013年2月に亡くなられた高野悦子さん(右・岩波ホール総支配人として、1985年から昨年まで行われた東京国際女性映画祭ジェネラルプロデューサーとして活躍されました)と、森岡さんの1995年5月に撮影されたツーショット

 

2013年3月上旬
 
取材 東京国際映画祭事務局宣伝広報制作チーム
インタビュー構成 赤塚成人

 
 
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第26回 東京国際映画祭(2013年度)