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2014.06.30
[インタビュー]
連載企画第12回(最終回):【映画祭の重鎮が語る、リアルな映画祭史!】-番外編2 夢を継ぐ若い人たちへ
連載企画

東京国際映画祭事務局 作品チーム・アドバイザー 森岡道夫さんロングインタビュー
 
第12回(最終回) 番外編2 夢を継ぐ若い人たちへ
 
第6回で壇上に上がれなかったニン・イン監督が、再びコンペ作で凱旋!
 
──第25回の映画祭までのインタビュー取材を終えた時には、すでに第26回東京国際映画祭の準備が始まっていました。無事、26回も終えているので、まずその感想から伺いたいと思います。     
森岡道夫(以下、森岡):ちょうど第26回の準備に入った時期に取材を受けて、新たに椎名保氏(KADOKAWA取締役相談役)がディレクター・ジェネラルに就任されたお話をしました(連載第6回番外編1「人は世につれ。世は人につれ」)。椎名氏は「作品重視・内容本位」の理念を掲げ、原点回帰となる映画祭になるよう尽力されました。充実した作品が集まったことや、豪華スターの来日もあり、意欲的な映画祭になったと思います。
 
──コンペでは、『ウイ・アー・ザ・ベスト!』(ルーカス・ムーディソン監督/スウェーデン)がグランプリを受賞しました。
森岡:馬々と人間たち』(ベネディクト・エルリングソン監督/アイスランド)、『ルールを曲げろ』(ベーナム・ベーザディ監督/イラン)、『エンプティ・アワーズ』(アーロン・フェルナンデス監督/メキシコ)など、個性的な作品が多く集まり、どれがグランプリに選ばれてもおかしくない状況でした。
日本映画の2本、『ほとりの朔子』(深田晃司監督)、『捨てがたき人々』(榊英雄監督)もなかなかの力作でした。
 
──トム・ハンクス、ロバート・デ・ニーロ、マチュー・アマルリックと、大物スターが続々やってきたのも久々のことでした。
森岡:その意味では、ジェームズ・スチュワートやグレゴリー・ペック、イブ・モンタンが来日した初期の映画祭に近い雰囲気だったかもしれません。マチュー・アマルリックは監督もやりますが、この時はコンペ作『ラヴ・イズ・パーフェクト・クライム』(フランス)の主演俳優として来日しました。大スターがQ&Aに登壇するとあり、会場はかつてない熱気に包まれました。
 
──今回、映画祭オフィシャルのサイン会が開催されたことも話題になりました。
森岡:まず、親日家のマチューさんが記者会見終了後の会場で、サイン会を開いてくれました。それから、もうひとつのコンペ作『レッド・ファミリー』(韓国)のゲスト、イ・ジュヒョン監督、主演のキム・ユミ、チョン・ウ、パク・ソヨンの皆さんが開いてくれました。
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©2013 TIFF サイン会の様子

 
──『レッド・ファミリー』のサイン会は上映会場で、Q&A終了後に開催されましたね。
森岡:脚本兼プロデュースを務めたキム・ギドク監督から申し出があり、ワールド・プレミア上映したスクリーン7で行ないました。終電間際の時間でしたが、壇上でサインが貰えるとあって観客は長い行列を作っていました。
グリーンカーペットを連日開催し、機会があればサイン会を行うなど作り手と観客が交流できる場を柔軟に設けたところにも、椎名さんの掲げる「原点回帰」が反映されていると思います。
 
──第6回(1993)でヤングシネマのグランプリに輝いたニン・イン〔寧瀛〕監督が、久々に新作を出品されました。『オルドス警察日記』(中国)です。
森岡:20年ぶりでしたが、ニン・インは私のことを覚えていてくれて、感激しました。最初の上映時のQ&Aでは、本人も再び参加できたことを喜んで大粒の涙を流していたそうです。
 
──当時を思い出したのかもしれませんね。
森岡:その年は中国映画が二つのコンペで最高賞を受賞したのに、『青い凧』(ティエン・チュアンチュアン監督)の上映をめぐる騒動が起こり、ニン・インは閉会式の壇上にあがることができなかった。幕を下ろしてから壇上に彼女を呼んで、記念写真を撮りました。以来ずっと活躍を願っていました。それが晴れて、コンペで再会できたのだから嬉しかったですね。2度目の上映時には私も駆けつけて、一緒に写真を撮りました。
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©2013 TIFF
上映後映画祭事務局に訪れたニン・イン監督と森岡さん、20年ぶりの再会

 
──部門の見直しも図られました。
森岡:「アジアの風」が「アジアの未来」に、「日本映画・ある視点」が「日本映画スプラッシュ」に、「WORLD CINEMA」が「ワールド・フォーカス」に、それぞれ生まれ変わりました。「アジアの未来」部門を長編1~2本目の監督を対象にしたコンペティションにしたのが大きな変化ですね。TIFFが当初から目指していた「ヤングシネマ」の精神が復活したことになりますね。
一方「アジアの風」部門で上映してきた新作や話題作は、「ワールド・フォーカス」部門で欧米の作品と併せて上映することになりました。
 
──アジア映画の上映本数が減り、ファンの方々から不満の声も聞かれましたが?
森岡:熱心なアジア映画ファンの方々からみると、作品数が減ったのかな…。何事もそうですが、継続することで歴史が作られるということもあるでしょうが、従来の「アジアの風」部門は役割を終えたのではなく、映画の未来を見据えて、発展的に各部門に統合された──。そう思って頂けるかどうかは、ファンの皆さんの受け止め方次第でしょうね。
 
 
錚々たるハリウッド・スターが参加している映画祭の歴史
 
──これまでの連載では「特別招待作品」、なかでもオープニング作とクロージング作について、あまり触れる機会がありませんでした。両セレモニーには、過去に華やかなゲストが駆けつけてくれましたね。
森岡:「特別招待作品」は配給会社の絶大な協力を得て、公開前の話題作をいち早く上映するための部門です。『タイタニック』のワールド・プレミア上映で、レオナルド・ディカプリオとジェームズ・キャメロン監督が駆けつけてくれたのもこの枠でした。
 
──先ほど名前が出たトム・ハンクス、ロバート・デ・ニーロもそうですよね?
森岡:今回は、トム・ハンクスは『キャプテン・フィリップス』(ソニー・ピクチャーズ配給)がオープニング作に選ばれ、開幕セレモニーにも出席しました。デ・ニーロは『マラヴィータ』(ブロードメディア・スタジオ配給)が枠に選ばれて、映画祭初来日しました。
実はトム・ハンクスは以前、『ターミナル』がクロージング上映(第17回)されて、その時にも参加しています。映画祭史上、開幕と閉幕の両セレモニーに来場されたハリウッド・スターは、今のところハンクスさんだけです(笑)。
 
──セレモニー上映を振り返るだけでも、これまで多くのスターが来場してきたことがわかります。試みに第8回(1995)~第15回(2002)をピックアップするだけでも、錚々たる顔ぶれが並んでいますね。
森岡:メル・ギブソン(第8回オープニング『ブレイブハート』)、ウィル・スミス(第9回オープニング『インデペンデンス・デイ』)、ハリソン・フォード(第10回オープニング『エアフォース・ワン』)、レオナルド・ディカプリオ(同『タイタニック』)、ブルース・ウィリス、リヴ・テイラー、ベン・アフレック(第11回オープニング『アルマゲドン』)、ブラッド・ピット(同クロージング『ジョー・ブラックをよろしく』)、フェイ・ダナウェイ(第12回オープニング『ジャンヌ・ダルク』)、アーノルド・シュワルツェネッガー(第13回オープニング『シックス・デイ』)、ドリュー・バリモア、ルーシー・リュー(第13回クロージング『チャーリーズ・エンジェル』)トム・クルーズ(第15回オープニング『マイノリティ・リポート』)が上映に併せて駆けつけてくれました。
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©1995-2000, 2002, 2004, 2013 TIFF

 
──第14回だけスター不在なのは、同時多発テロの影響でハリウッドが自粛モードだったのを受け、両セレモニーでアニメーションが上映されたからです。以来、晴れの舞台にアニメが積極的に選出されるようになりました。
森岡:第12回(1999)で最初に、ディズニー映画『ターザン』をクロージング上映しました。それから、『シュレック』(第14回オープニング)、『アトランティス/失われた王国』(同クロージング)、『ファインディング・ニモ』(第16回クロージング)、『ウォーリー』(第21回クロージング)、『カールじいさんの空飛ぶ家』(第22回クロージング)と、次々にセレモニーで上映しました。
 
──ちなみにアニメーションでは、どんなゲストを招いたのですか?
森岡:監督や歌手、吹き替えの声優など様々です。『ターザン』の上映では、頭髪の薄い白人が上映後の舞台に現れました。監督かなと思っていたら歌を唄いだし、ものすごくいい声なのでびっくりしました。主題歌を唄うフィル・コリンズさんでした。
聞けば大変有名な方だそうで、会場で披露した曲「ユール・ビー・イン・マイ・ハート(You’ll Be in My Heart)」は、翌年の第72回アカデミー賞で歌曲賞を受賞しました。アカデミー賞の生歌なんてなかなか聴けませんからね。いま考えれば得した気分です。フィルさんはバンドを引き連れて来日し、10曲ほど披露してくれました。
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©1999 TIFF
熱唱するフィル・コリンズさん

 
──映画主題歌だけでなく、「見つめて欲しい(Against All Odds)」「トゥー・ハーツ(Two Herts)」などのヒット・レパートリーも演奏したそうですね。
森岡:この時はツアーではなく、映画祭のためだけに来てくれました。一夜限りの大サービスです(笑)。体調を崩したこともあり、フィルさんの来日はその後、実現していません。
こんなふうに、ハリウッド・スターや大物歌手が来てくれたのは、各配給会社の尽力のおかげです。映画祭を盛り上げようと、多くの方々が協力して下さることに心から感謝します。
 
 
時代を越えて、審査される側から審査する側へ
 
──連載では、森岡さんが人選に関わったコンペ作品の審査委員のエピソードも伺ってきました。グレゴリー・ペックの温厚篤実な人柄(連載第2回「日本国際映画祭から東京国際映画祭へ」)、映画祭のホスピタリティに感激したロジャー・コーマン(連載第4回「アジア映画の隆盛と映画祭10周年」)、「指名代打」のホウ・シャオシェン〔侯孝賢〕(連載第5回「映画祭は何が起きるかわからない」)、震災下の困難な状況下で引き受けてくれたエドワード・R・プレスマンとキース・カサンダー(連載第11回「震災と政治の荒波を越えて」)のお話など、心に残っています。
森岡:コーマンさんはトーキョーがよほど気に入ったのか、第25回(2012)でも審査委員長を引き受けて下さいました。第7回(京都/1996)も、25回の時も、奥様のジュリー・コーマンさん(プロデューサー)が同行され、献身的に付き添っていました。
 
──審査委員を職能別に見ると、プロデューサー、監督、俳優から作家まで様々な方がいます。一体どんなふうに選ぶのですか?
森岡:優れた作品を数多く手掛け、国際的にも著名な映画人のリストは常に手元に用意しています。その中から国別、職種別のバランスを考慮して審査委員の人選を行なっているのです。直接交渉もしますが、つてをたどってお願いしたり、各国の映画協会の協力を得たりしながら決めています。映画祭の期間と前後の旅程を含めると、最低2週間は時間の取れる人が望ましい。でもそんな人はなかなか居ないから、いつも第1候補、第2候補と順位を付けて打診していました。いろんな方々がいて面白かったですね。
 
──わけても思い出に残っている方は誰でしょう?
森岡:第20回(2007)では、『ライフ・イズ・ビューティフル』で知られる映画音楽作曲家、ニコラ・ピオヴァーニに審査委員をお願いしました。ニコラさんからは事前に、空き時間に作曲したいので、電子ピアノをホテルの部屋に据えてほしいと申し出を受けました。そこで楽器を用意すると、締め切りに追われているのか、ほんとに夜中に仕事をしているようでした。
ある日の朝、部屋にお迎えに上がっても返事がありません。居ないのかと思ってドアを開けると、窓の外を見てぼーっとしています。作曲に没頭するあまり、ノックの音に気付かなかったのです(笑)。お声がけしようとした矢先、曲想がひらめいたらしく、夢中でピアノを弾いて音符を書き記していました。見た目もそうですが、どこをどう切っても芸術家という方でした。
本業がこれだけ多忙を極めているのに、ニコラさんはきちんと作品を評価し、審査会で率直な意見を言ってくれた。さすがはプロだと感心しました。
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©2007 TIFF
ニコラ・ピオヴァーニさん

 
──以前の参加者や受賞者が、審査委員として参加されるケースも多いですね。
森岡:映画祭のホスピタリティに感激されたのは、コーマンさんだけではありません。出品者の多くが、この映画祭に特別な思い出をもってくれています。だから快く引き受けてくれるのです。これまでイドリッサ・ウエドラオゴ、ジャン=ピエール・ジュネ、ガリン・ヌグロホ、イム・ホー〔厳浩〕など、多くの受賞者が後年に審査委員を引き受けてくれました。
 
──第23回(2010)では、ニール・ジョーダン、ホ・ジノ〔許秦豪〕、根岸吉太郎の3監督が審査委員に名を連ねています。
森岡:皆さん、かつて審査される側の人間でした(笑)。ニール・ジョーダンは第1回ヤングシネマに『狼の血族』を、ホ・ジノは第14回コンペに『春の日は過ぎゆく』を出品しています。根岸さんは第18回コンペに『雪に願うことを』を出品し、グランプリをはじめ四冠を受賞しました。
 
──根岸監督は「映画漬けで大変幸せな9日間だった」と、当時を振り返っていました。
森岡:記者会見の席で、「ニッポンから来ましたネギシです」と笑いを誘っていましたね(笑)。ただのジョークにしても、国の代表という意識があると外国プレスには好印象でした。根岸さんは前年モントリオール国際映画祭で最優秀監督賞を受賞しています(『ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ』2009)。モントリオールの経験も手伝って、他の審査委員とも仲良くやってくれました。
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©1985-2014 TIFF
第1回-第26回審査委員の皆さん

 
 
獰猛なまでの探求心が、新たな才能を生み出す力となる
 
──長い歳月の中では、逝去された映画人のことにも度々触れてきました。
森岡:1985年に映画祭がスタートした時は、大家と呼ばれる監督がご健在でした。黒澤明、木下恵介、市川崑、今村昌平が現役で作品を作っていたのです。しかし皆さんお亡くなりになって、先人の功績を未来に伝えることは、映画に携わるものの責務だという気持ちになりました。
第1回で受賞した相米慎二の死(2001)は、さすがにショックでした。エドワード・ヤン、ヤスミン・アフマドといった若い才能が失われたことも、映画界にとって大きな損失でした。
大島渚が亡くなったことは連載で触れましたが、同年輩のテオ・アンゲロプロス、若松孝二も不慮の事故で命を落としています。若松さんが「日本映画・ある視点」で作品賞を受賞した大作、『実録連合赤軍 あさま山荘への道程』を追悼上映しました(第25回TIFF)。
また、アンゲロプロスの遺作となった『エレニの帰郷』を上映しました(第26回TIFF)。かつて審査委員を務めてくれたギリシャの巨匠の作品を追悼上映できたのは東映の岡田裕介社長のおかげです。
 
──TIFFと二人三脚で歩んできた東京国際女性映画祭のジェネラルプロデューサー、高野悦子さんも昨年天寿を全うされました。
森岡:2012年、「女性映画祭」が終了するに際して、高野さんは「女性監督を輩出し、映画界で働く女性を増やすという当初の目標を達成できた」と、その歩みを振り返りました。思いを遂げるまで見届けたのかと、目頭が熱くなりました。映画界に大きな足跡を残した彼らの遺志を継ぐのは、その仕事に影響を受けた若い方々の使命ではないかと思います。
 
──映画祭では未来を担う若い監督が次々に登場しています。しかし、撮り続けられる監督はほんの一握りです。
森岡:デジタル時代となりカメラが小型化し、映画を撮りたい学生は年々増えています。お金がなくても、アイデアがあれば映画を撮れるという時代の流れはクリエイターにとって歓迎すべきことでしょう。
しかし一方で、プロとアマとの境界がなくなってしまった。プロとして生涯撮り続けるには、小手先のアイデアだけでは道は拓けないと覚悟すべきです。
ブログで簡単に、にわかライターになれるのと同じで、いま映画監督になるのは簡単です。にわかで文章が書ける、にわかで監督になれるという気楽な状況を抜け出すには、過去の名作を観て確かな批評眼を養う必要があるし、ドラマと表現の本質を鷲掴みにする獰猛なまでの探求心が欠かせません。
 
──ひらめきだけでは大成しないと?
森岡:もちろんです。往年の撮影所で助監督を経験したことのある監督たちは、ワンカットの画作りにも工夫を凝らすのです。たとえば、「喫茶店で語りあうカップル」の場面を撮る場合、その背景の窓越しに何人の通行人を歩かせればよいのかを知っています。それも当然、スタンダードサイズとワイドスクリンとでは違ってくるのです。画面サイズや場面設定(それが繁華街なのか、田舎なのか)によってそれぞれに相応しい雰囲気を作らなければならないのです。スタジオ・システムが崩壊し、ロケ中心の映画作りになったとはいえ、こうした技は自ずと誰かに引き継がなければなりませんね。
映画は集団作業であり、いろんな人の意見を聞くうちに、つい自分の資質を忘れてしまいがちです。しかし、こんな現場だからこそ鍛えられて、ここから先は譲れないという真の個性が見えてくるものです。時代に名を残す作品は、けっして自分の個性を偽らず誠実に反映したものです。これから映画を撮る人も、いま映画を作っている方々も、安易に妥協せず、ぜひ初志を貫いてほしいと思います。
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©1985-2014 TIFF
歴代の受賞者の皆さん

 
 
映画祭30年間のなかで事務局の引っ越しも7回
 
──最後にささやかな質問をさせてください。それは映画祭事務局の所在地についてです。森岡さんが最初に訪ねた本部は、銀座にあったというお話でした(連載第2回)。われわれが関わるようになった時には築地にあり、その後、新川に移転しています。この四半世紀の間に、事務局では多くの人材が入れ替わりましたが、引っ越しも度々あったそうですね。
森岡:人も場所も、その時々の財政やトップの考えを反映させて、目まぐるしく変遷しました。主要ポストの人事については、前回の番外編で触れましたが、本部所在地まではこれまで話す機会がありませんでした。
確かに私が最初に通ったのは銀座2丁目です。かつてあった名画座、並木座の向かいの小さなビルでした。並木座の脇を入ったところに、大衆割烹の三州屋があり、たまにそこで一杯引っかけたりしました(笑)。
それから第6回(1993)の頃に、200メートル離れた銀座1丁目に移転します。場所は、京橋の角にある三菱東京UFJ銀行の裏通り、広いオフィスでした。次に、第14回(2001)を前に東銀座に引っ越します。
万年橋西の交差点を京橋方面に折れて、少し行ったところにあるギンザエイトビルという建物です。これは当時の川内(通康)GPがニッポン放送会長でフジ系列だから、こんなに広くなくてもいいオフィスがあるよと、系列の物件を紹介されたのです。8チャンネルだからエイトビル。わかりやすい名称でした(笑)。
その後、角川氏の3年目、第18回(2005)のおりに築地に移りました。本願寺に近い晴海通りに面した建物は、今のスタッフも大勢通っていたので懐かしい方も多いでしょう。
そして新川には2011年、第24回の前に越してきました。
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左:銀座2丁目・並木通りから三州屋さんを見たところ。左側の建物が並木座でした。
中:縦長のエイトビル。忙しい時期は廊下にも机を並べての作業だったそうです。
右:晴海通りの旧事務局は工事用パネルで覆われ解体工事中でした。

 
──5回も引っ越しがあったのですね。地誌的な事実は些細なものですが、映画祭の「生き字引」である森岡さんに教えてもらわなければ、永遠に埋もれてしまう挿話でした。
森岡:もっとも、私が関わる前に開催された第1回(1985)の頃の準備期間中は、南青山・骨董通りに面したワンルームマンションにあり、会期が迫ってきた時に、渋谷センター街を入って宇田川交番を抜けた、渋谷BEAMのすぐ傍の一軒家に本部が移ったそうです(笑)。
 
──およそ30年の間に7回。単純計算すると、4年に1度は移転していることになりますね。
森岡:そのうえ、会期中には会場近くに簡易事務局を置きますからね。もう毎年引っ越しているようなものです(笑)。
若いスタッフは銀座や渋谷に行ったら、かつて事務局があった場所を巡ってみるといいと思います。三州屋でカキフライをつまみにビールを飲むのもいいでしょう。ギンザエイトビルもまだ健在です。こんなに小さなビルで国際映画祭を運営していたのかと、さぞ驚かれることでしょう。渋谷BEAMにはいま、吉本興業の劇場ができて若者たちで賑わっています。
銀座も渋谷も昔はもっとひっそりした一角でしたが、そこに多くのスタッフや協力者が出入りして映画祭を築いてきました。今となっては何の面影もない土地に立って、兵どもの夢の跡に思いを馳せることは、多忙な業務をこなすなかでもしばしの憩いとなるはずです。
 
 

取材 東京国際映画祭事務局宣伝広報制作チーム
インタビュー構成 赤塚成人

 
今回のお話しの過去TIFF詳細はポスター画像をクリック!
(アーカイブされた過去TIFFサイトへリンクします)
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第26回(2013)
 
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連載終了のご挨拶:森岡道夫→
 

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第26回 東京国際映画祭(2013年度)