東京国際映画祭事務局 作品チーム・アドバイザー 森岡道夫さんロングインタビュー
第3回 平成時代に入って徳間体制へ
──第3回東京国際映画祭(1989)は、昭和天皇が崩御し元号が平成と改まった年に開催されました。
森岡道夫(以下、森岡):1989年はその他にも消費税制度が導入され、参議院での与野党逆転、美空ひばりと手塚治虫の死など、歴史を象徴する出来事が起きています。海外に目を向けると、ベルリンの壁が崩壊しソ連邦が体制を維持できなくなるなど、東西イデオロギー対立の終焉を予感させる1年でした。映画祭で注目すべきことは、この年からオープンした渋谷Bunkamuraに拠点を移して開催されたことです。
オーチャードホールをメイン会場に、シアターコクーン、ル・シネマ1、ル・シネマ2の会場を借り、開催時にはさらにBunkamuraザ・ミュージアムを借り切って、本部とミーティング・ルームを設置しました。そうして機能的に映画祭を開けたことは第3回の大きな特色でした。
──街の演出も華やかだったそうですね。
森岡:109のシリンダーにジョン・ウエインの姿をディススプレイし、商店街に小旗を飾りました。また第2回には行わなかったオープンカーによるパレードを、この年だけ復活させています。新たな会場で始めることもあり、力が入っていました。
109シリンダー広告(左)、東急東横店のハチ公側から渋谷駅南改札へ向かう通路に飾られた小旗(右上)、東急本店前からBunkamura入口前でもパレード(右下)
──どんなふうに部門と会場を分けたのですか。
森岡:インターナショナル・コンペティション部門と特別招待作品をオーチャードホール、ヤングシネマ・コンペティション部門をシアターコクーン、アジア秀作映画週間(第2回のアジア秀作映画祭を改称)をル・シネマでそれぞれ上映しました。自主企画と協賛企画を併せると、松竹セントラル、渋谷パンテオン、PARCO劇場なども使用しましたが、主要部門はほぼBunkamuraの会場を使用しました。
──今回からインターナショナル部門とヤングシネマ部門のコンペ国際審査委員を分けて設けるようになりますね。
森岡:インターナショナル部門の審査委員長がイブ・モンタン(俳優・歌手)で、審査委員にテオ・アンゲロプロス(監督)、ニキータ・ミハルコフ(監督)、『古井戸』で第2回インターナショナル部門グランプリを受賞したウー・ティエンミン〔呉天明〕(監督)、武満徹(作曲家)などの計9名。ヤングシネマ部門の審査委員長がサンディー・リーバーソン(プロデューサー)で、ヘルマ=サンダース・ブラームス(監督)、ジョージ・ミラー(監督)、ツイ・ハーク(監督・プロデューサー)、ウィレム・デフォー(俳優)、羽仁進(監督)などの計7名がそれぞれ審査に当たっています。
審査員長を務めたイブ・モンタンさんと黒澤明監督
──大変豪華な顔ぶれですが、審査委員の招致はどのようにされたのですか。
森岡:インターナショナル部門は東映国際部が協力して下さり、チームを作って担当してくれました。グレゴリー・ペック、イブ・モンタンと続けて大スターを招致できたのは彼らのおかげです。ミハルコフ監督やアンゲロプロス監督は、海外映画人に顔が広い草壁久四郎さん(映画評論家)に連絡してもらいました。海外映画祭の経験が豊富な方でしたから、いろんなことを教わりました。
草壁さんには「ぜひ東京国際の審査委員をやりたい」と言われたことがあります。でもすでに映画祭の評議員をされていた方なのでお断りすると、「世界の映画祭で審査委員をしていないのは日本だけなんだよ」とこぼしていました(笑)。ヤングシネマ部門は、ツイ・ハーク監督やウィレム・デフォーの近い筋の方にお願いし、ジョージ・ミラー監督は直談判したところ、快く引き受けてくれました。
審査委員らを迎えたパーティーで司会をする森岡さん。右端にウィレム・デフォーさんの姿も。
──コンペ以外の部門はどんなものをやったのでしょう。
森岡:自主企画としては、1980年代の邦画にトピックを当てたNIPPON CINEMA NOWを開催し、『ゆきゆきて、進軍』『ザ・鬼太鼓座』など14本を上映しました。またアジア秀作映画週間では、映連時代にお願いしていた映画評論家各氏が選定し10本を上映しましたが、一国一作品で絞ったため、やむなく選に洩れた作品がありました。いまでこそアジア映画は人気がありますが、当時はお客が入らなくてキャパシティ100人前後のル・シネマでも空席が多かったですね。
特別招待作品では、審査委員長を務めたイブ・モンタンの主演作『想い出のマルセイユ』、また、『ブラックレイン』、ニュープリント版の『風と共に去りぬ』を上映しました。
──協賛企画では、おなじみの「東京国際ファンタスティック映画祭」「カネボウ国際女性映画週間」の他に、「日本映画の系譜」が目を引きます。
森岡:これはフィルムセンターと文化庁が関係した協賛企画で、日本映画の昨日と今日(第2回まで開催された自主企画)の「昨日」の部分に特化して上映しました。衣笠貞之介、伊藤大輔、五所平之助、成瀬巳喜男、溝口健二、小津安二郎の各監督作品を系統的に上映し、研究者によるシンポジウムを開催しました。この他に、1982年に亡くなったイングリッド・バーグマンを偲ぶ企画 INTERMEZZO 伝説のバーグマン が開催されました。
──ゲストはどんな方々が参加されたのですか。
森岡:作品ゲストとして、マーロン・ブランド(俳優)、ダイアン・レイン(女優)、クリストファー・ランバート(俳優)、イーサン・ホーク(俳優)、ロン・ハワード(監督)、ユン・ピョウ(俳優)、ジャン=ジャック・べネックス(監督)、イザベル・パスコ(女優)、ルネ・クレマン(監督)、ベルトラン・タヴェルニエ(監督)らが来日しました。
マーロン・ブランドは『白く渇いた季節』(アメリカ)で主演男優賞に輝きますが、映画のなかでは助演です。でも審査委員の裁量で主演男優賞を獲得したというので話題になりました。日本からは高倉健(俳優)、富司純子(女優)、内田裕也(俳優)、桃井かおり(女優)、薬師丸ひろ子(女優)らが舞台挨拶に登壇しました。
──ヤングシネマ部門では、前回、『選択』を出品して高評価を得たイドリッサ・ウエドラオゴ監督が、この年『ヤーバ』(ブルキナファソ・フランス・スイス合作)でさくらゴールド賞に輝いたことも注目に値します。
森岡:ウエドラオゴ監督はブルキナファソ出身ですが、いまはパリに事務所を構えて活動しています。この後、第11回(1996)のときに審査委員を引き受けてくれました。また、さくらシルバー賞には長崎俊一監督の『誘惑者』が選ばれ、相米慎二監督以来となる日本人の受賞者となりました。
受賞トロフィーを掲げるウエドラオゴ監督(左)、受賞者記者会見に臨む受賞者の皆さん(右上)、クロージングセレモニーの様子(右下)
──作品選定にまつわるエピソードはありますか。
森岡:私はこのとき取りまとめ役に専念し、海外出張は別の方に任せて取り寄せた応募作品を国内で選定していました。選定の段階から『ヤーバ』は目立っていましたね。受賞を逃した作品では、歴史上の人物を描いたエロス・ジャロット監督の『炎の女 チュッ・ニャ・ディン』(インドネシア)とヨゼフ・フィルスマイアー監督の『秋のミルク』(西ドイツ)が記憶に残っています。
第2回までフィルムでの応募が優勢でしたが、2年後の今回はビデオのほうが多くなっていました。国によってさまざまな規格がありますから、海外盤にも対応できるビデオデッキを買い求めました。
──『炎の女 チュッ・ニャ・ディン』も『秋のミルク』も、その後劇場公開されています。映画祭の上映作がのちに劇場公開されたり、されなかったりする現実をどうお考えになりますか。
森岡:上映後に配給会社がついて一般公開されたら、それは選ぶ者にとっての遣り甲斐ですが、いまのWORLD CINEMA部門のように一般公開まで行かなくても、「こんな映画があるんだ」と記憶に留めてもらえれば、それはよかったと思いますね。映画祭での作品選定に際して、配給会社が興味を持つ作品を選ぶべきだという意見もありますが、映画祭でしか見られない映画をかけることにも意味はあるはずです。ジャンル別、国別に考えると同時に、そうしたバランスを考えて選考する必要があると思います。
──続いて、第4回東京国際映画祭(1991)を回顧したいと思います。
森岡:歴史的には、湾岸戦争が勃発してソ連が崩壊した年です。日本では雲仙普賢岳の噴火があり、相撲の若貴ブームに湧いた年です。映画祭としては、この第4回が節目の年だったと言えるでしょう。第2回、第3回とゼネラルプロデューサーを務めた石田達郎さんが逝去され、後任に徳間康快氏(徳間書店社長・映画プロデューサー)がGP(ゼネラルプロデューサー)として就任します。そして、この回から通年開催となりいまに至る事務局体制が確立されるのです。
──それまでは常駐スタッフが5~6名で、部門ごとに外部の方たちが担当する仕組みでしたよね。
森岡:映連や映画会社からも人材の出向を促し、すべての自主企画を内部で取り仕切ることにしたのです。「国際映画祭は日本映画界の一大事業であり、日本アカデミー賞と東京国際映画祭は車の両輪である。したがって、映画業界全体が一致団結して協力すべきだ」というのが、徳間GPの持論でした。
組織としては、作品選定委員会、広報委員会、上映委員会を設け、これらを統括する実行委員会が全体の運営にあたることになりました。実行委員会の委員長は東映の岡田茂会長。作品選定委員会の委員長は徳間GPの兼務。上映委員会の委員長は松竹の奥山融社長、広報委員会の委員長は東宝の松岡功社長(途中で上川重久氏に交代)です。また映連の鈴木進さんが映画祭事務局長に就任し、大手映画会社や渋谷に興行チェーンを持つ東急レクリエーションの社員が出向して約20名が事務局で働くことになり、各部門を担当するメインスタッフによる総合調整会議が定例で開かれることになりました。
──徳間さんの方針で、通年開催にふさわしい一貫した運営体制が築かれたわけですね。自主企画としては、2つのコンペ部門と「特別招待作品」「アジア秀作映画週間」「NIPPON CINEMA NOW」がこの回の柱でしたね。
森岡:そうですね。各部門の担当としては新たにインターナショナル・コンペ部門の担当に伊達幸隆さん(東映)、アジア秀作映画週間の担当に市山尚三さん(松竹)が就任しました。もっともこの年、アジア秀作映画週間はまだ映連が主導的役割を果たしていて、市山さんも仕事を抱え余裕がなかったので調整役という役回りでした。
ヤングシネマ・コンペ部門は、引き続き私が担当しました。NIPPON CINEMA NOWの担当はキネマ旬報の黒井和男さんで、1980年代後期から90年初めにかけて製作された作品を上映しました。特別招待作品では、黒澤明監督とサタジット・レイ監督の、長年に渉る功績を顕彰してオマージュ上映が企画されました。
──自主企画はこれだけですか?
森岡:徳間GPの発案で、この年だけカンヌ映画祭の「ある視点」部門で上映された秀作を上映しました。『地獄の黙示録』の撮影風景を収めた『ハート・オブ・ダークネス』など6本です。また映像関係のシンポジウムや、スクリーンミュージックコンサートなどの催し物を開催しました。
──『風の谷のナウシカ』から『千と千尋の神隠し』まで、多くのスタジオジブリ作品に徳間さんは製作総指揮で名を連ねていますね。近年では、『コクリコ坂から』に登場する徳丸理事長のモデルとしても知られています。ご一緒に仕事をされて如何でしたか。
森岡:私たちにとっては大変な大物であり、有言実行の方でした。困ったことがあって相談に行くと、「君はどう思うんだ」というのが口癖で、思っていることを伝えると、「よし分かった。何かあったら俺が責任を持つ」と言って下さいました。奇しくも徳間GPの在任期間中に、中国関係のアクシデントがふたつ起きますが、いずれも言葉のとおり、映画祭なりのやり方で切り抜けることができました。信頼して任せてくれたので、仕事は大変やりやすかったです。
──国際審査委員の顔ぶれはどんな方々ですか?
森岡:インターナショナル部門がルイス・ギルバート審査委員長(監督)、ナタリー・バイ(女優)、シエ・チン〔謝晋〕(監督)を始めとする7名、ヤングシネマ部門がエドワード・R・プレスマン審査委員長(プロデューサー)、クリスティーン・ハキム(女優)、木村威夫(美術監督)を始めとする5名です。プレスマンさんは若いフィルムメーカーの育成に力を注いでいるプロデューサーとして、佐野哲章さん(現ソニー・ピクチャーズ)にご紹介いただきました。
ヤングシネマ審査委員長エドワード・R・プレスマンさん(左)と『ボイジャー』をコンペティションに出品したフォルカー・シュレンドルフ監督(右)
──第3回に較べると人数が減っていますね。
森岡:それぞれの部門としては適正なのではないかという判断がありました。この年、ヤングシネマ部門では賞の種類をひとつ増やして新たにブロンズ賞を設け、3本の作品に各500万円が贈呈されることになりました。ゴールド賞、シルバー賞と併せると賞金総額4,500万円となり、東京が若い監督を応援していることを内外にアピールすることが出来ました。賞の冠名を従来の「さくら」から「東京」に改めたのもこの年です。
──その他に変更されたことはありますか。
森岡:ヤングシネマの応募資格を改定し、<35歳未満で商業公開された作品が3本以内であること><年齢にかかわらず1本目の作品であること>としました。この条件を満たして、ゴールド賞に輝いたのが『デリカテッセン』(フランス)です。ジャン=ピエール・ジュネ監督はその後、第19回(2006)の映画祭で審査委員長を務めてくれました。
『デリカテッセン』でヤングシネマ東京ゴールド賞に輝いたマルク・キャロ(右)とジャン=ピエール・ジュネ(左)の両監督。
──インターナショナル部門で受賞を逃した作品では、北野武監督の『あの夏、いちばん静かな海。』やウォン・カーウァイ〔王家衛〕監督の『欲望の翼』(香港)が話題になりました。
森岡:日本映画では、『四万十川』(恩地日出夫監督)の美術と撮影スタッフが、最優秀芸術貢献賞を受賞しました。アジア映画では、エドワード・ヤン〔楊徳昌〕監督が『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』で、審査員特別賞と国際批評家連盟賞の2冠を獲得しました。
──さて、初めての連続開催を迎え、第5回東京国際映画祭が1992年に開催されます。
森岡:私は毎年開催が決定した第4回までをTIFFの黎明期、第5回以降を発展途上期と考えています。この年の特色としては、まず料金体系の改定が挙げられます。これまで通常の料金体系に合わせて入場券の販売を行ってきましたが、この回から当日券1,000円、前売券800円に定め、長い間これが映画祭の基本料金になります。
──新体制となって2年目に入り、徳間ゼネラルプロデューサーから新たな提案はありましたか?
森岡:徳間さんの方針を整理すると、<映画祭の毎年開催><アジア映画の充実><フィルムマーケットの開催>の3点になります。このうち毎年開催は前年実施が決まったので、この年からアジア映画の充実と、フィルムマーケットの開催に力を注ぐことになりました。
──これまで映連のイニシアチブで、“アジア秀作映画週間”が運営されてきました。
森岡:第5回から市山さんはさまざまな提案を行い、部門の刷新に取り組むことになります。まず、一国一作品という従来の選定方法を廃し、よい作品があれば何本でも取り上げることにしました。そうすることで、これまで選考から洩れてきた娯楽作の上映を可能にしたのです。次に、それまで東南アジアに偏りがちだった上映作を、世界有数の映画大国であるインド、当時旋風を巻き起こしていたイラン、旧ソ連邦のカザフスタンやタジキスタンの作品まで押し広げて、日本におけるアジア映画の地図を塗り替えました。
また部門内で、独自にオープニング作とクロージング作を設けたことも、特筆に値するでしょう。市山さんの試みはマスコミの注目を集めて高い評価を得ました。
──フィルムマーケットとは、映画会社が各国の配給会社に作品を売り込むためのイベントですね。
森岡:当時は、AFM(アメリカン・フィルム・マーケット)が2月に、MIFED(ミラノ国際映画見本市)が11月に開催されていました。またカンヌでも、映画祭期間中にフィルムマーケットを展開しています。「フェスティバルとマーケットの両方がなければ一人前の映画祭と言えない」という徳間さんの判断で、第1回フィルムマーケットを開催したのです。
短期間で実施したため、税関対策が万全ではなく苦労しました。新宿の京王プラザホテルを会場に、24カ国から505社、約1500名が参加しました。いま映画祭では、映画やアニメ、ゲームなどのコンテンツを含めた総合マーケットTIFFCOMを開催していますが、当時は映画産業だけの開催でした。この試みは第7回(1994)でいったん終了し、装いを変えてまた始まります。
──インターナショナル・コンペ部門では、『ホワイト・バッジ』(韓国)と『赤い薔薇ソースの伝説』(メキシコ)が2冠に輝きました。
森岡:『ホワイト・バッジ』で、チョン・ジヨン〔鄭智泳〕監督が作品賞と監督賞を獲得しました。なかなかいい映画で、アン・ソンギ〔安聖基〕も熱演でしたが惜しくも主演男優賞を逃しましたね。『赤い薔薇ソースの伝説』は、映画祭上映時のタイトルは『引き裂かれた愛』でした。洋画に邦題をつけるとき、私たちはつい文学的なタイトルを付けがちでしたが、のちに配給が決まって一般公開されるとき、がらりと題が変わってしまった(笑)。これでは観客も戸惑うだろうと反省し、次回の映画祭(第6回/1993)からなるべく原題の直訳で済ますように変更しました。
──ヤングシネマ・コンペ部門では、スペインのフリオ・メデム監督がゴールド賞を受賞しましたね。
森岡:『バカス』はとても感動した作品で、コンペに選出したら大賞に決まって感無量でした。田園風景を舞台にしたドラマで、人間の営みを牛が静かに見つめている。カメラ・アイを牛に託したインパクトのある作品です。受賞を逃したものでは、ガイ・マディン監督の『ケアフル』(カナダ)はアート系の面白い作品でした。また、マジッド・マジディ監督の『バタック 砂漠の少年』(イラン)は市山さんが教えてくれた作品で、私も新鮮な感動を覚えました。マジディ監督はその後、『運動靴と赤い金魚』で国際的に高い評価を得ています。
『バヤニ』(フィリピン=ドイツ)のレイモンド・レッド監督は、一昨年の第22回映画祭(2009)で『マニラ・スカイ』が上映されています。当時は細身の青年でしたが、久しぶりに会ったらいい体格のおじさんになっていた。私のことを憶えていてくれて感激しました。私も白髪頭になっているのですが(笑)。
──黒沢清監督は、審査委員として来日したクリストファー・リー(俳優)を見て興奮したと、25回記念冊子のメッセージで貰いました。
森岡:インターナショナル部門の審査委員長に、ダリル・F・ザナックの息子であるリチャード・D・ザナック(プロデューサー)が決まったのですが、ほぼ並行してイギリスの名優クリストファー・リーも審査委員に決まりました。クリストファー・リーのキャリアを考えると審査委員長でもおかしくない。そこで、リーさんには副委員長をお願いすることになりました。この回だけの例外的な待遇です(笑)。ヤングシネマ部門の審査委員長はオランダのプロデューサー、キース・カサンダーにお願いしました。
リチャード・D・ザナックさん(右)とクリストファー・リーさん(左)
取材 東京国際映画祭事務局宣伝広報制作チーム
インタビュー構成 赤塚成人
今回のお話しの過去TIFF詳細はポスター画像をクリック!
(TIFFヒストリーサイトへリンクします)
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